爽やかイケメン好青年がんぺー

マレーシアやマレー世界が好きなだけの青年が、マレーシアの歌を翻訳したり、マレー世界についてなにか紹介とかするブログです

がんぺーのいちばん長い日①

 母親は自分の子供を産んだ日のことをよく覚えているものなのか、1995年の12月6日は満月がきれいな、風の強い夜だったということは、耳にタコができるほど聞かされている。そろそろタコ焼き屋を開店できるのではないかと思うほどであるが、出産というのはそれほど忘れ難いものなのだろう。

 このとき大阪市内のボロい総合病院の分娩室で、健康体で産まれてきた。

 父方の祖父が生まれたての孫を見て「この子の名前は太(ふとし)や!」と宣言した。祖父は一文字の名前が好きで父親の兄弟はみな漢字一文字の名前である。おかげで韓国人が男児命名する際にきょうだいや同世代のいとこで同じ字を名前のなかでひとつ共有する、行列字と呼ばれる習慣は我が家ではとっくに廃れていた。

 父親はこれを無視した。のちにその体系を見込まれ楕円球を追いかけることになるまで成長したので、この名前にならなくてまったく正解である。

 そう。日本で韓国人として生まれた。

 本籍・釜山広域市、特別永住権を持つ在日韓国人三世の李洸祐(くぁんう)、そして通称名は武田洸祐としてこの世に生を受けた。仮名ではあるがリアリティを出すために敢えて名前を付けてみた。まあこういう名前だと思ってほしい。

 ちなみに太なら韓国語では太(て)である。

 

 先ほど、わざわざ健康体で産まれたと書いたのには、この二年後の11月にこの世に出てきた弟・洋祐(やんう)がそうでなかったからである。

 いまでも弟の足の中指と薬指はくっついている。看護師さんが「足がハートちゃんになってます」と母親に言ったのだそうだ。たしかにそんな形である。産まれてすぐに、医師や看護師が血相を変えて弟はなにかの検査のためにどこかに連れて行かれた。重度のダウン症候群でうまれた弟にとって、韓国も日本も在日も、なにもかもとうてい理解できるものではなかった。

 

 大韓民国慶尚北道のとある山間部の村に、高速道路のインターチェンジの近くには漢字で書かれた大きな碑石がある。太というふざけた名前をつけようとした父方の祖父ではなく、朕が産まれる数年前に亡くなっていた母方の祖父の名前を冠した「愛郷記念碑」である。

 大韓民国成立時から南側を支援し、儲けた金で故郷への支援を惜しまず、地元の民団支部を設立し、在日同胞の権利向上のために長年闘ってきた、愛国者であり韓国民団の老幹部。祖国が統一したとき、まかり間違えて北側主導になったときに真っ先に「こいつを殺す」と地元の朝鮮総連幹部に言われていたほどだという。大阪府地方本部の副団長を務め、中央団長選挙に出馬して敗れるまで組織に身を捧げた。おじさんたちは大阪韓国学校に通っている。

 ふざけた名前をつけようとした父方の祖父もまた、地域の民団支部の役員を務め、民族学校で教鞭を執っていた。どういう経緯なのかはよく知らないが、親族の多くが北送(帰国運動)で北韓国に渡った「アカ」とも思われかねない祖母と結婚したものの、大韓民国の発展に涙する愛国者だった。代々クリスチャンで、法事も無いし一文字の名前ばかり付けて行列字もないのだが、表面上の文化が見えなくても祖父母らは「韓国」を生きていた。ちなみに母方のきょうだいは女性にも行列字が使われているので全員男性のような名前になっている。

 そんな家に産まれたからには、どう転んでも韓国人になるしかなかった。父親は自営業をする前は民団系の旅行会社に勤めていた。母親は二世にしては珍しく流暢な韓国語を話す。家で出てくる料理はだいたいニンニク臭いし、自分でもニンニク臭い料理しか作れない。

 「こうすけ」という名前は仮のものだと早い段階から知っていた。こうすけ、ではなくお前は、くぁんう、なのだと。周りの子たちとは違ってお前は韓国人だと言い聞かされていた。親族呼称は父方、母方ともクナボジ、サンチュン(おじさん)、コモ、イモ(おばさん)、ハンメ(おばあちゃん)といった具合に韓国語だった。こんな家で帰化という選択肢は当然なかったように思うし、いまでも親戚の多くは韓国籍だ。

 サンチュンのひとりは日本人のおばさんと結婚するために駆け落ちまでして家を出ていった。そんな時代に、そんな家に生まれて、帰化なんて選択肢は無きにしも等しかった。在日韓国人として生きることが求められたし、当然だと思っていた。

 

 弟は障害を持ちながらも成長していった。特別支援学校に入れることも考えていたが、兄もいる地元の公立小学校にいっしょに通った。

 23歳になったいまでも話せない弟への課題はたくさんあったが、そのうちのひとつが福祉だった。日本で福祉を享受するにあたって韓国籍は明らかに足かせだった。目の前の世界すらもどう見えているかわからない弟にとって、韓国や日本といった世界よりも生きていくための制度やお金が大切だった。

 自分のことを韓国人と知りながらも武田洸祐として小学校に通っていたとき、両親は大韓民国を捨てて、日本国籍を選んだ。本人はなにもわかっていなくても、これから障害を抱えて長い人生を歩む弟を見たときに、なんのカネにもならない愛国心は邪魔でしかないことは明白だった。

 李家は武田家になり、本籍地は大阪府大阪市になった。両親は母方の祖父の墓の前に謝罪に向かった。

 10歳のとき、日本人になった。